新聞やテレビでは次々とハラスメントを特集する番組が放送されています。神学や就職活動に際して、ハラスメントの有無が大きな課題になったりしているようですし、もはやこの問題を避けて通れません。

でも、当事者が裁判に訴えたり、加害者とされる人が有罪とされ、責任者が会見で謝罪したりしたら、それで問題は解決したといえるのでしょうか。もちろんそんなはずはないでしょう。本当の解決は社会からハラスメントがなくなることです。

しかし、日本では個々のハラスメント事件を単独の問題、話題として扱うだけのように見えます。ですから裁判などが終わると問題が消失したかのようにメディアは次の話題に焦点を移します。しばらく時間が経過してから特集が放送されたりはしますが、どうしてそんなに関心が薄いのでしょうか。

日本は責任を個人的問題として把握する傾向が強いからではないでしょうか。個人の性格などがハラスメントの問題に関与しているのは事実ですし、心理的な分析をすればそのような問題のある傾向が顕著に表れるでしょう。

結果的に被害者に対してメンタルケアを提供するが問題を置き去りにしがちなのですが、同じ性格の傾向にあってもハラスメントの被害者になるとは限りません。そこでは個人的な性向以外の要因が見落とされているといえます。

またハラスメントは日本に限られた問題でもありません。確かに昨今、日本で問題を目にする機会が増えてきましたし、身近に感じられる事例が少なくないでしょう。しかし、目を海外に向ければ、以前からヨーロッパでもアメリカ合衆国でも問題になっている話題のひとつなのです。

つまりハラスメントは人間集団が社会を作っているなら生じる問題です。ですからハラスメントの責任は個人ではなく社会にあります。当事者を除外すると一旦はハラスメントがなくなるのは事実でしょうし、ハラスメントをする人はどこにいっても同じ事をするリスクが高いに違いありません。

それでも、だれでもハラスメントをしかねないし、だれでも被害者になりかねません。社会が変化しなければ、いつもハラスメントは次の加害者、被害者を見つけ出します。個人の問題として捉えるのでは、解決が片手落ちになるということです。

集団内でストレスとフラストレーションが共有されるのが大前提です。誰かが集団のストレス等を独り占めするようにはなりません。要因は共同責任として、あるいは共有されます。

残念ながら社会集団を分析的に議論する力が足りていないのではないでしょうか。そのような社会では集団の成員がハラスメントに役割を担います。当事者はハラスメントをする人とされる人です。片方が加害者で他方が被害者ですが、それだけではないはずです。

どこかにハラスメントを助長する人がいます。社会が見逃してはいけないポイントだと思います。この役割が存在しなければ、ハラスメントは生じなかったでしょう。さらに周囲には観客にも似た、ハラスメントを黙認する人がいます。このように個々の成員が社会集団を形成して、ハラスメントが生じます。

このような構造に着目すれば、ハラスメントはなくなるという方法はこんなにあるでしょう。ただし、社会集団を解体すれば、集団の目的そのものも消え去ってしまいます。

あるいは個々の成員が人間でなければ、ハラスメントはなくなります。現在ではまだナンセンスそのものですが、近い将来、人間にAIがとって代われば、実現されるかも知れないと思います。

集団へのストレスをなくせば、ハラスメントはなくなるというのがもっとも現実的なのでしょう。先にハラスメントを経験した海外の国ではこの選択を模索しているようですし。