いつの時代であれ、大前提として若い世代は対人コミュニケーションの訓練が不十分だと仮定できます。何故ならニュアンスを正しく読めない傾向が見られるからです。ニュアンスを言外に漂わせると自分に都合良く解釈するのが人間です。ですから技能が未熟なので、複雑なパターンを使用すると混乱してしまうのです。

幸いなことにコミュニケーションにはパターンがあります。言い替えれば、いくつかのパターンに沿って情報のやりとりをするのがコミュニケーションです。その状況は町中の喫茶店などで、周囲を観察すれば、使用される文の組み立て方はそれほど多くないのがわかります。

しかし、そのような場所で見かける雑談の内容には、事実・情報の交換が行われています。確かにパターンの種類は貧困ですが、情報の交換を進めて信頼関係を維持しています。これは注目に値する事実だと思います。

整理された少ないパターンを提示して何度もコミュニケーションで訓練するのが有効です。例えば報告のパターンを、文例と意味の解説とを提示します。ルールを知っているのを見なすのではなく、周知するのが親切で必要なやり方なのです。その上で、そのパターンを使わないとすれば、意図的であると判断できます。

コミュニケーションは責めるのではなく、情報を提供するという心構えが肝要です。言動選択に必要な根拠と方法とを提示するのが情報提供です。ただし相手に情報を与えても、言動を変化させる保証はありません。だからといって、強制的に言動を変化させてもその場限りに終わるでしょう。

人間は意味のない無駄な行為を敬遠しますので、自分の言動が効果しない、無駄な言動選択だと理解すれば変化します。指導する立場の人間としては相手の知識に何が不足しているかを観察する力量が試されるわけです。

また内的規制に従った強制をしても通用しません。内的規制は時代・文化が異なると根拠を失います。国が違えば、文化・規範が違い、時代が違っても文化は異なりますので、相手に理由が伝わりません。

自分とどのように関係しているのかという利益の還流メカニズムを使うのが賢明でしょう。指示に従うことで具体的にどのような利益が期待できるかを説明します。提示された規範に利益がないものもあるかと心配になるかも知れませんが、それは大丈夫。カントによれば、すべての規範に利益を期待できるからです。

よりよいと相手が思う行動を選択できるための情報を選ぶのも大切なポイントです。そもそもコミュニケーションの原則は相手の主権を認めることです。そして相手が判断する権利を持つと考えるのが主権です。相手の判断を強制するのには無理があります。特に相手が成人しているなら、その言動を強制するのは無理なのです。

ただ新しい知識・情報の提示は難しいのも事実です。知識・情報は事実の表現が中心になりますし、業務の指示、指導も事実の表現が中心のはずです。このコミュニケーションパターンに感情が入る余地はありません。

他方、自然な日本語表現の場合は、共有した状況を想起させて感情に訴えるパターンが多いそうです。理由は日本の小説は情景と心情表現を中心に発展した歴史にあります。いつも行動を共にしていれば、新たな事実を伝えるパターンは不要でした。それで日本語では事実を伝える機能が不足しているように思えます。

事実をどのように表現するか、から一緒に学ぶ態度が有効です。赤提灯で交わされる野球や気候、サッカーの話題でも事実は添え物です。でも酒の席で評価をぶつけ合うような状況はできづらいですから、利用できるはずです。ただの飲みニケーションに終わらせてはもったいない実践の場ですね。