社会的枠組みが立場を決められなくなってきたと思います。ここでは生得的にハラスメント傾向が高い性格を持つ人は少数だと仮定しているのは、少数派の問題を取り上げるのはあまり建設的な考えを生み出さないと考えるからです。

心理学的に証明されているのは追い詰められたネズミはパニックを起こすという事実です。強いストレスにさらされると予期されない行動をとるのは人間でも同じです。ハラスメントとは窮鼠猫を噛むという事態ではないかと思うのです。

学校での先生、職場での上司、家庭での父親などいずれも権威の立場に伴う権威がなくなったという大きなストレスを見逃すわけにはいかないでしょう。実は彼らが弱くなっていて、強いストレスにさらされているように思えるのです。

今でも一部では確実に、立場が決定する責任範囲と力を決めています。教師が教師の責任を負い、生徒は生徒の責任を負うという約束を前提にしています。それぞれが分を守るという前提があったはずです。

立場が責任範囲と力とを保証しなくなった結果、教師に抵抗できない生徒と生徒に抵抗できない教師が生まれています。片方に一方的な力の不均衡を作ってしまっています。具体的には生徒が逸脱したときに正しく指導する方法がまだ充分に熟していません。

直接的な力の行使に代わる方法が充分に知られていないのではないでしょうか。適切な指導という言葉が指し示している具体的な言動が何なのか指示されているとはいえません。また、緊急性をどのように判断するのか基準が示されていないのも課題です。

お互いの責任範囲を社会が決められなくなったのも大きくストレスを生んでいます。枠組みがないなかで対処を迫られるのは、戦場で火器を突きつけられる以上のストレスを生み出すはずです。

このような状況にあって、立場的に追い詰められるとハラスメントさせてしまうとすれば、ハラスメントに手を出すリスクは誰にでもあるということになります。ハラスメントが求めているのは自分と相手との優劣関係の決定だと思えます。

逸脱した平等感覚は立場を超えた支配関係を求める原因です。平等は確かに人間にとって基本的な原理ですが、社会的な役割に委任してきた権威も平等感覚が破壊しました。そこに役割的不平等を信頼できない人たちが従来の枠組みでのルールを破るのでは、どちらが優位かを支配関係によって確認しなければならないわけです。

今や平等な関係だから優劣の地位を決定する必要があるわけで、立場や身分が構成していた社会的枠組みは封建的制度として拒否されます。もはや社会的枠組みを前提にした信頼関係が通用しません。社会的自由を前提にした信頼関係を構築するべきでしょう。

それなら社会制度によらないで、相互の信頼関係がパワーバランスの土台にくれば良いのかもしれません。信頼関係が距離感を決定して、距離感の遠近で言動の意味が違うものになります。また社会的な距離パターンを区別して人間関係も構築されていくでしょう。新たな儀礼的に距離パターンに従うコミュニケーションが高度な社会性を担うはずです。

問題は信頼関係をどうやってつくるのかに焦点がきます。当然ひとりひとりのコミュニケーション能力の向上が必要でしょうが、コミュニケーションの定義を決めるような議論から始める必要があります。

アメリカからテキストを取り寄せて調べた経験から言えるのは、コミュニケーションは段階的に深まります。また最適モデルを学ぶだけではダメです。コミュニケーションはそれぞれ機会毎に千差万別の変化をします。パターンに習熟して、原理を正しく運用できなければこまりますし、双方の技能が向上する必要があります。