ニュースで報じられる事件を見る度に嫌な気分になります。すべてが同じ事情ではないでしょうが、問題として取り上げられるのは、事件性を帯びた事態だけだからです。

恐らく、一部の事件には語られることのないコンテキストがあるはずです。確かに取り上げられるべきはセンセーショナルな加害者の行為でしょう。でもそれが生じた背景が大きな要因になっているのではないかとも思うのです。

企業や学校、PTAなど現代の集団は個人の背景を作る文化が多様すぎます。同じ集団にまったく違った世代が参加していても違和感がありません。それが原因なのか、精神的な言葉が違う事態を指しているのが気になります。

例えば「尊敬」という言葉。若い世代の友人にそれがどのような意味であり、それを表すためにどのような行動をするかと質問したことがあります。なんと、「すごいと思うこと」が尊敬することであって、あえて特別な行動に結びつかないと言っていました。

これは少し上の世代にとって違和感が大きいのではありませんか?表せない敬意です。つまり表される敬意がないというのなら、受ける態度からの心証は、基本的に不敬だと考えるほかありませんよね。

平等は世代間を通じて、用いられる言葉の中でも難しい用語です。当然、崩壊していないはずがありません。上司、部下という違った立場であるにもかかわらず、両者は平等でありと強弁するのが、現代の若者たちかも知れません。

平等でも立場に応じた権威があり、上の権威にある者に対してへりくだった態度をとるのは、言わなくても理解されていると考えるのは、時代錯誤した認識になっています。

お互いの立場が違っているにも関わらず、同じ言葉を違う意味に使うので不安を強く感じます。平等な人間のあり方が能力や功績に頼ったあり方に優位になってきたということなのかもですね。とにかくこのような文化背景で言葉や態度の世代間のギャップが大きい時代だと言えましょう。

個人的にさすがに加害者ではないけれど、セクシャル・ハラスメントだと思われる行為をする欲求を感じた経験はあります。その時の自分を分析的に解雇すると、信頼に応えてもらえていない感がありました。

人間は信頼したのにそれに対する結果が伴わないとき、何かでバランスを取りたいと思うものなのでしょう。不足した応答に一種の欲求不満が生じていたと考えることもできます。そうして信頼に応えてもらえなかったという経験がバイアスの掛かった欲望を生み出すように思います。

信頼感に親しさが足りていなかったということでしょうか。いうまでもなく、見知らぬ人を信頼するのはお人好しだけですから、信頼するにはそれに応じた親しさが必要です。だからこそ信頼する相手との親しさを確認したいと思うのは当然でしょう。

ただお互いの承認で信頼関係を確認できるのが相応しいのですが、どのような方法で承認を確認するのかが、具体的で問題になります。考えてみればわたしたちはそのような方法を学校で学びません。信頼意識を確認する方法を学習すべきかも知れません。

信頼しあうコミュニケーションを心がけなさいと、周囲の人たちにはおすすめしています。それは相手をトラップにかけるコミュニケーションが横行しているからです。自分の答えを忖度させる問いかけのような依頼は、目的を遂げるためではなく、むしろ相手を間違えさせるための謎々のように感じさせます。

逆に信頼されなくても崩れない自己を造るのは、他人と互して生きる基本でしょう。確かに信頼されないのは苦痛です。痛いほどの孤独を感じます。それでも孤立・孤独を恐れないメンタルを育てて自立するのが大人のたしなみでしょう。