モラル・ハラスメントのように、言葉や態度等によって行われる精神的な暴力は見えづらいです。人は外見によりませんから、問題が発生するまで気づかないかもですね。

でも傾向の強い人たちには性格的特徴があるようなので、傾向と対策は可能かも知れません。それならば傾向と対策をしてハラスメントから身を避けられるヒントを見つけたいと思います。

端的に言って彼らには心に問題があると考えるのは短絡的かも知れません。確かにしつこい人であることが多いでしょうが、しつこい人を裏返せば、熱心な人ということになります。熱心さや親切心がすべてハラスメントに結びつくとは限りません。

単にしつこいのではなく、ある事柄においてのみでなく、感情的に圧迫が出来る人格を持っているとも指摘されます。今、だれかを適当に選んで感情的圧迫を加えられるかといえば、私にとっては簡単ではないです。そうなるとハラスメントにある種の才能が必要なのかも知れません。

ハラスメントできない人が被害者になりやすいのかもと、自分のみに引き当てて、不安になりそうです。彼らにとっては「他人の不幸は蜜の味」ともいうではありませんか。このような人たちを相手にするのは不幸でしかないでしょう。とっとと逃げるとしたものですね。

でも、このようなタイプの人は少数派だと思いたいです。このような性向的にハラスメント体質という人や、ハラスメント症とでもいうべきものはもはや専門家と相談するほうが良いかも知れません。良い病院を紹介してあげるべきです。

やっかいなのは、誰にでも覚えがあるような心理的経験が基礎にあるらしいハラスメント要因です。例えば人間関係や信頼関係に関する傾向といわれれば、誰の胸にも不安が響くと思うのです。そしてモラル・ハラスメントの加害者になる人には、信頼関係の形成に問題があると指摘されています。

ただし程度の違いがあります。相手が自分の子供であっても信頼関係を作れないとハラスメントの傾向が心配されます。信頼関係が不適切な状態になると、強い者には弱く弱い者には強いという正確が裏付けされる気もしますね。

ターゲットにする相手に対し、前と今で言うことが矛盾していても、何も気にならないのは当たり前なのです。だって一貫していなければ困ると思うのは一定の信頼関係を前提にしているのですよ。信頼できない相手に一貫性を保つのは苦労なだけです。

それにも関わらず異様なソフトさで接してくるというのは、分かりやすい。下手に出ることで対人圧力を避けようという魂胆に違いありません。そして罪悪感を持たないために、責任を負いません。

責任を他人に押し付けるのは、自らの不利益を避けるためです。だからこそ自分にとって不利益になると分かれば態度をがらりと変えるわけです。内実から乖離した、立派な言葉を使うという指摘もその様子ですね。

自己無価値感が思考をバイアスしているというのも耳が痛いです。自分が十分な自己価値感を抱いているとも思っていないからです。彼らには奉仕することで自己価値観を獲得したいという欲求が垣間見えます。恩に着せたりしますが、不安を煽り解決し、相手に感謝を求めます。

他者を支配することで、自己価値観を確認するという方法に問題があります。感謝されて価値あるものとして認められたいという欲求が強いため、際限もなく非現実的なほど高い欲求を周囲の人にする。自分への被害は甚大な被害に扱う。

自己無価値感を過剰な自己愛でバランスしようとします。自己価値感や信頼関係に対する不安は程度が違っていても、共有されているものですから、日頃から自分の価値を感じれるような信頼関係を作り上げたいです。