言ってしまえば、集団が受けているストレスが問題の核心です。ストレスを取り去れば、ハラスメントは消え去るそうです。ハラスメントをする加害者にとっても、ストレスのない状況では高いリスクがあるだけだからです。

しかし現実に目を向ければ、集団が構成される以上は、ストレスが生じるようです。家庭のストレスがなくても、地域社会にはストレスがあるでしょうし、さらに都市や国家、国際レベルにまで構造化しているからです。

なので学校の受験ストレスは解消されないのは仕方ないのかも知れません。受験制度は国家レベルの問題です。このレベルの問題を置き去りにして、個々の問題に取り組んでも解決したとは言えないはずです。それでもこのレベルで課題は明確にされていないように見えます。

現在の大学受験に臨んでいる生徒には公開されないストレスがあります。確かに学校での学習はストレスです。それは学校が設立して以降同様ですが、かつての一発試験での進学は大きなストレスでした。ストレスと歪みを緩和するために工夫されたのですが、ストレスはかえって複雑化してしまいました。

それでも生徒の数は3人以上でも複雑な人間関係になります。多人数の集まりは交流を不均質にします。昔は友人関係が人間関係の緩衝材として機能したのでしょうが、今ではリラックスするのがより難しくなっています。

社会での人間関係の空き地が狭くなっていてより複雑さが大きくなり、その社会構造が学校での人間関係にも持ち込まれてしまったのかも知れません。

生徒にとって将来を決定しかねない問題が隠されているのは大きなストレスです。何が自分の将来を決定するのかわからない状況であり、加えて多重化したストレスがさまざまな方向にあると言えるでしょう。その結果として落ちこぼれる理由も多様化しているようです。

同様に職場でも集団としてストレスを抱え込んでいます。それは職場の集団目標を達成するストレスです。業務である以上はなんらかの達成目標やノルマがあります。これがストレッサになるケースが多いでしょう。

明示された目標と暗示された目標とがあるのが普通です。売り上げ目標なんていうのが明示された目標でしょう。そして一致団結して相互に援助し合って、効率性を高めようというのが、まず語られることのない暗黙の目標になっているような気がします。

暗黙の目標を達成するために忖度が文化的コードなので、明文化できません。忖度を明文化することで意味の範囲を著しく縮小して制限しかねないからです。隠れた目標と忖度が要求されると、文化コードを誤る可能性が高まりと意識統一なんてできず、ストレスを大いに高める結果を招くのです。

そもそも自分で判断することには責任があるはずです。確かに周囲の人が大きな影響力を持っていることはありますし、強制されて抵抗できないときもあります。それでも周囲にいいように扱われるのも自分の選択です。自分でできることを明確にしなければ戦えないでしょう。

個人の権利はとても大切ですが、単なるルールに過ぎません。自分自身の言動(言葉と行動)は自分の意思で責任を持つのが成熟した個人主義であるはずです。

他人を支配するのではなく自分をコントロールする方法があまりにも語られていない気がします。周囲の人をおとしめることで自分の優位を確認する人は少なくありません。できることよりできないことの方が多いのが普通だからです。できないことを明示することで、おとしめるわけです。

対人関係で優位に立って、相手を支配しようとしても日本では目立ちません。他人を支配する前に、いつも自己向上を心がけてコントロールするのが良いはずです。