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こんな方法が効果的!こうすればハラスメントのターゲットにならない

ハラスメントはどこにでもあります。未然を考えに入れればどこにでもありえるでしょう。確かにハラスメントが問題になっていない集団はいくらでもあります。むしろそのようであるのが大多数です。しかしあえてここで、集団のハラスメントを不可避のものだと考えます。

学校、職場、PTAなど組織ができれば、ハラスメントの可能性はあります。いずれも規模が大きい人間の集団です。しかし、ある意味では、それがたとえ家庭であってもハラスメントが生じ得ます。それは人間が2人以上集まれば社会を形成するからです。

小さい規模の社会で生じるハラスメントでは問題解決が難しくなります。ハラスメント行為自体は猿社会でも見られる通り、一種のストレス発散という機能を備えています。そんなことでストレスを発散されたら、実際たまったものではありませんけどね。

つまりハラスメントはストレスで発火するという性質を持っています。ですから結論を簡単にまとめれば、社会的ストレスを解消すればハラスメントは消えてなくなります。先進国では常識になっているこの事実が何故日本では語られる機会が少ないのかわかりりません。

ハラスメント行為の犠牲になるのは所属組織の全員ではありません。全員がが対象になっていないのです。また、すべてのグループでハラスメントがあるというわけではありません。つまりハラスメントは特殊な事態であり、問題が目立ちます。

ハラスメントの対象になったり、被害に遭う人には共通する特徴があります。そしてどのような組織であってもハラスメントの対象になりやすい人が一定数います。それは人の話を理解しない人だそうです。だからといって闇雲に従順な人も同様で、建設的な会話ができない人は相手にストレスを与えるからです。

何よりも大切な護身はハラスメントを受ける前に対象にならないように自衛することでしょう。裏を返せば、ハラスメントの被害を受けてからでは遅いのです。なぜなら被害を受けているなら、社会の場の構造が決定されているからです。場の構造を変化させるのは難しいでしょう。

ですからハラスメントに立ち向かう決意をするのが第一歩です。そのための原則は、「一人で行動しない」です。周囲から孤立していると無力だからターゲットにされやすいです。別の言い方をすればいつも避難場所を確保しておくのです。

ただしハラスメントの加害者を撃退するのではなく、回避するのが最初の目標です。ハラスメントをする人はそもそもなにかの点で強い人ですよね。ですから撃退を目指すと力対力の図は問題をエスカレートさせてしまいます

どんな組織にも群れ(下位のグループ)ができていますから、グループの存在を発見します。命令者と、追従者とを見分けることで支配構造が見えてくるはずです。

その上で支配構造にどこにも所属しない安全地帯を見つけると良いでしょう。安全地帯にはグループを繫ぐ役割がありますので、噂話に耳を傾けたり、上手く立ち回っている人と仲良くなると具体的な助けになります。

あるいは孤立する人同士でグループを作るなどして、とにかく孤立をさけます。このようにして二人きりにならない工夫が力になります。

フォーマルとインフォーマルを意識するとハラスメントの成立構造が明らかになりますが、役職などのフォーマルな役割はインフォーマルの上に成立しています。インフォーマルな関係をコントロールすると孤立しません。

例えば、ある種の情報の発信者になるとインフォーマルでも存在価値が高まりますので、飲み会などインフォーマルな接触を大切にするのが秘策です。インフォーマル関係で弱みを握っている相手にハラスメントはできません。

こうして戦おう!ハラスメントのターゲットになってしまったなら

ハラスメントの対象になるのは悲惨な事態です。だれでも被害者になる可能性があります。特定の誰か、自分以外の人が…と考えられれば、他人事で済ませるのかもしれませんが、そうはいきません。

ハラスメントのターゲットは誰でも良いのです。それはターゲットが個人の趣味によって決まるのではなく、グループの構造によって決定されるからです。言い替えるならば、ハラスメントは構造を背景に持っています。

一般的にいって、構造にはまってしまうと、対抗するのは難しくなります。構造が持っている力が強すぎるからです。誰かが個人的になんとかできるレベルではありません。

なのでハラスメントの被害を受ける前に対策するのが肝要というわけですが、それでも気がついたらハラスメントの対象になっていたということもあるでしょう。

そのような緊急事態では対抗するのではなく、逃げるのが基本です。自分の力より大きな力に対峙したとき、最初に考えるのは逃げる方法です。これはハラスメントに限らず、あらゆる武術・戦術に共通した原則です。

ハラスメントを受ける現場で、自分の気持ちをやんわりと、でも明確に相手へ伝えるようにします。相手を直接攻撃する言葉は厳禁です。相手の感情を刺激するからです。人格攻撃も避けるべきです。ただ静かに言葉を使って相手の理性に話しかけます。

通常なら理性が優位になった時点で、客観的に冷静な判断力を取り戻してもらえるはずです。それで行為を中止してくれるなら、作戦成功でしょう。

それでも続くようなら、逃げる決意をして準備します。具体的に逃げる方法を考えておかなければいけませんよね。学校なら転校、職場なら転職、家庭なら相談所といった具合に、それぞれに対策します。

ひとりで悩む、ひきこもるという意思決定と行動は問題を複雑にしますので、絶対に避けたい。時々、突然の出社拒否に打って出る人がいたり、消息を絶ってしまう人を見たことがありますが、そのようなことをすると一方的に悪者にされてしまうのが落ちです。

ちなみにハラスメントの構造とは特定の環境です。職場なのか学校なのか、それとも家庭なのかの違いです。通常では学校でのハラスメントが家庭でも同様に行われるような事態はありません。

ただ複数の環境で同時にハラスメントを受けることもありえます。職場でハラスメントを受けている人が、家庭でもハラスメントを経験する事態はあるでしょうが、ハラスメントのケースとしては別件ですし、まれな事態です。

ただ職場と家庭の両方でハラスメントのターゲットだと逃げ場がないという状況です。最近そのような事例を相談されて、絶望的になりました。そのような事態に遭遇しても、希望を捨てずに援助者を探す努力があれば、事態が好転するでしょう。

相手は何人なのかというのも、構造を決定する要素です。ハラスメントが一対一で行われる例は多くありません。ですから一対多の対決を避けて一対一に持ち込むとよく、その場合相手の群れの一番弱いところが突破口になります。

第一歩として動物的衝動に対抗する理性へ呼びかけるわけで、それでもダメなら動物的衝動に動物的対抗措置を用意するという順番です。その両方を考慮して、日頃の準備がものをいいます。

日頃から周囲の人が受けているストレスに注意を払い、自分がストレッサ(ストレスを与える人)にならないように心がけます。人の時間と空間に割り込まない、主権を害さない、無視しない、というのは基本です。

礼儀作法を乱さないように注意するのが意外と大切です。相手との距離を保つ礼儀作法はいざという時にも役立ちます。礼儀正しい交渉は、役割や地位を認識させて理性を刺激します。

ハラスメントを作り出す前提を知れば、状況をコントロールできる

何もないところで、ハラスメントは起こらないのは当然のことですよね。では何があるとハラスメントが生じるのでしょうか。ハラスメントを生じるための要件は何か。これがハラスメントの背景を探る最初の問題になります。

最初に特定の人間集団が必要です。集団において個人が他の人たちと均質な親密さを持つことはまれです。日本人の場合は、好き嫌いの感情的表現を用いる傾向が強いですが、それぞれの距離感にモアレが生じます。

そこに欲求不満と大きなストレスが背景を形作ります。平和で安泰な人間集団にハラスメントは無用です。何かのストレスがハラスメントを生み出します。ハラスメントする人もストレスの被害者なのですね。

人間関係の強弱が歪みを作り出します。親しい関係は強く、逆なら弱い関係と考えますが、弱い関係にある人がハラスメントのターゲットになりやすい。つまり均一ではない強弱が生じている関係にストレスが掛かるとハラスメントを生じるといえそうです。

言うまでもありませんが、生まれつき悪意の人なんていません。生育環境の中で善意・悪意に出会って成長しています。そして不信感は悪意のない行為に悪意を生み出す傾向を持つようになります。そして悪意が危険であると認識し、不信感がリスクとして認知されます。

さして親しくもない人からこみ入った話をされると違和感を生じるのは不信感が悪意を感じさせているのです。また親しい人に対して意地悪になる日本人の傾向が気になります。親しいんだからわかってくれるという期待があります。

心理学者はこの心理を「甘え」だと論じる場合もありますが、日本人の信頼感は心理的緊張を解放するために効果がある方法です。公式の場と私的な場との距離感を使い分ける感性は日本人の意識に強くあったはずです。

ハラスメントの背景にある問題は態度と距離感の不一致が亀裂ではないでしょうか。伝来の日本のコミュニケーション様式や公私の距離感が損なわれてきた結果なのかもしれませんね。このような距離感は信頼感に基づいていました。

そもそも人間同士は無条件に信頼し合えないという性質があるように見えます。信頼すると自分の弱点を相手に公開することになりかねないという恐れがあるのかもしれません。

そして信頼の度合いをはかり知る方法はないものかと思うわけです。どれだけの無礼が許されるかで判断する方法を採用する人も少なくありません。不躾なことを言っても、不躾にならない関係を親しい関係だと理解している人は、身近にいました。

お互いに嫌われているのではないかという負の疑惑を持っているのも見逃せません。自分が嫌われているからという負のバイアスで解釈して余計な歪みを生み出します。逆説的な問題も生じています。避けると嫌われていると判断されかねないですが、接触するとハラスメントになってしまうリスクを感じます。

例えばグループに対してストレスをかけて作業をさせますが、グループはストレスと欲求不満を抱え込みます。どのようなグループでも時間の経過とともにハラスメントを生じます。一人がハラスメントをするのではなく、一人のハラスメント被害者をつくるのです。

友人関係のつながりからはぐれている人がターゲットになる傾向が高いのですが、つながりから断絶している人は全体のパフォーマンスに与える影響が小さいからだと考えられます。

つまり個人の誰かではなく全体として、ターゲットを決定しているわけです。そうであるなら周囲の全体にメリットを供与しているならターゲットにならないといえます。
性別で態度と親近感のバランスが異なる
女性は身体的距離と親近感との結びつきが男性より強いようです

誰も対処しない根本原因−ハラスメントはどうしてなくならないのか

新聞やテレビでは次々とハラスメントを特集する番組が放送されています。神学や就職活動に際して、ハラスメントの有無が大きな課題になったりしているようですし、もはやこの問題を避けて通れません。

でも、当事者が裁判に訴えたり、加害者とされる人が有罪とされ、責任者が会見で謝罪したりしたら、それで問題は解決したといえるのでしょうか。もちろんそんなはずはないでしょう。本当の解決は社会からハラスメントがなくなることです。

しかし、日本では個々のハラスメント事件を単独の問題、話題として扱うだけのように見えます。ですから裁判などが終わると問題が消失したかのようにメディアは次の話題に焦点を移します。しばらく時間が経過してから特集が放送されたりはしますが、どうしてそんなに関心が薄いのでしょうか。

日本は責任を個人的問題として把握する傾向が強いからではないでしょうか。個人の性格などがハラスメントの問題に関与しているのは事実ですし、心理的な分析をすればそのような問題のある傾向が顕著に表れるでしょう。

結果的に被害者に対してメンタルケアを提供するが問題を置き去りにしがちなのですが、同じ性格の傾向にあってもハラスメントの被害者になるとは限りません。そこでは個人的な性向以外の要因が見落とされているといえます。

またハラスメントは日本に限られた問題でもありません。確かに昨今、日本で問題を目にする機会が増えてきましたし、身近に感じられる事例が少なくないでしょう。しかし、目を海外に向ければ、以前からヨーロッパでもアメリカ合衆国でも問題になっている話題のひとつなのです。

つまりハラスメントは人間集団が社会を作っているなら生じる問題です。ですからハラスメントの責任は個人ではなく社会にあります。当事者を除外すると一旦はハラスメントがなくなるのは事実でしょうし、ハラスメントをする人はどこにいっても同じ事をするリスクが高いに違いありません。

それでも、だれでもハラスメントをしかねないし、だれでも被害者になりかねません。社会が変化しなければ、いつもハラスメントは次の加害者、被害者を見つけ出します。個人の問題として捉えるのでは、解決が片手落ちになるということです。

集団内でストレスとフラストレーションが共有されるのが大前提です。誰かが集団のストレス等を独り占めするようにはなりません。要因は共同責任として、あるいは共有されます。

残念ながら社会集団を分析的に議論する力が足りていないのではないでしょうか。そのような社会では集団の成員がハラスメントに役割を担います。当事者はハラスメントをする人とされる人です。片方が加害者で他方が被害者ですが、それだけではないはずです。

どこかにハラスメントを助長する人がいます。社会が見逃してはいけないポイントだと思います。この役割が存在しなければ、ハラスメントは生じなかったでしょう。さらに周囲には観客にも似た、ハラスメントを黙認する人がいます。このように個々の成員が社会集団を形成して、ハラスメントが生じます。

このような構造に着目すれば、ハラスメントはなくなるという方法はこんなにあるでしょう。ただし、社会集団を解体すれば、集団の目的そのものも消え去ってしまいます。

あるいは個々の成員が人間でなければ、ハラスメントはなくなります。現在ではまだナンセンスそのものですが、近い将来、人間にAIがとって代われば、実現されるかも知れないと思います。

集団へのストレスをなくせば、ハラスメントはなくなるというのがもっとも現実的なのでしょう。先にハラスメントを経験した海外の国ではこの選択を模索しているようですし。

これが置き去りに!ハラスメントが隠している社会の構造問題はこれ

言ってしまえば、集団が受けているストレスが問題の核心です。ストレスを取り去れば、ハラスメントは消え去るそうです。ハラスメントをする加害者にとっても、ストレスのない状況では高いリスクがあるだけだからです。

しかし現実に目を向ければ、集団が構成される以上は、ストレスが生じるようです。家庭のストレスがなくても、地域社会にはストレスがあるでしょうし、さらに都市や国家、国際レベルにまで構造化しているからです。

なので学校の受験ストレスは解消されないのは仕方ないのかも知れません。受験制度は国家レベルの問題です。このレベルの問題を置き去りにして、個々の問題に取り組んでも解決したとは言えないはずです。それでもこのレベルで課題は明確にされていないように見えます。

現在の大学受験に臨んでいる生徒には公開されないストレスがあります。確かに学校での学習はストレスです。それは学校が設立して以降同様ですが、かつての一発試験での進学は大きなストレスでした。ストレスと歪みを緩和するために工夫されたのですが、ストレスはかえって複雑化してしまいました。

それでも生徒の数は3人以上でも複雑な人間関係になります。多人数の集まりは交流を不均質にします。昔は友人関係が人間関係の緩衝材として機能したのでしょうが、今ではリラックスするのがより難しくなっています。

社会での人間関係の空き地が狭くなっていてより複雑さが大きくなり、その社会構造が学校での人間関係にも持ち込まれてしまったのかも知れません。

生徒にとって将来を決定しかねない問題が隠されているのは大きなストレスです。何が自分の将来を決定するのかわからない状況であり、加えて多重化したストレスがさまざまな方向にあると言えるでしょう。その結果として落ちこぼれる理由も多様化しているようです。

同様に職場でも集団としてストレスを抱え込んでいます。それは職場の集団目標を達成するストレスです。業務である以上はなんらかの達成目標やノルマがあります。これがストレッサになるケースが多いでしょう。

明示された目標と暗示された目標とがあるのが普通です。売り上げ目標なんていうのが明示された目標でしょう。そして一致団結して相互に援助し合って、効率性を高めようというのが、まず語られることのない暗黙の目標になっているような気がします。

暗黙の目標を達成するために忖度が文化的コードなので、明文化できません。忖度を明文化することで意味の範囲を著しく縮小して制限しかねないからです。隠れた目標と忖度が要求されると、文化コードを誤る可能性が高まりと意識統一なんてできず、ストレスを大いに高める結果を招くのです。

そもそも自分で判断することには責任があるはずです。確かに周囲の人が大きな影響力を持っていることはありますし、強制されて抵抗できないときもあります。それでも周囲にいいように扱われるのも自分の選択です。自分でできることを明確にしなければ戦えないでしょう。

個人の権利はとても大切ですが、単なるルールに過ぎません。自分自身の言動(言葉と行動)は自分の意思で責任を持つのが成熟した個人主義であるはずです。

他人を支配するのではなく自分をコントロールする方法があまりにも語られていない気がします。周囲の人をおとしめることで自分の優位を確認する人は少なくありません。できることよりできないことの方が多いのが普通だからです。できないことを明示することで、おとしめるわけです。

対人関係で優位に立って、相手を支配しようとしても日本では目立ちません。他人を支配する前に、いつも自己向上を心がけてコントロールするのが良いはずです。

加害者の立場から!セクシャル・ハラスメントが生じる原因はこれだ

ニュースで報じられる事件を見る度に嫌な気分になります。すべてが同じ事情ではないでしょうが、問題として取り上げられるのは、事件性を帯びた事態だけだからです。

恐らく、一部の事件には語られることのないコンテキストがあるはずです。確かに取り上げられるべきはセンセーショナルな加害者の行為でしょう。でもそれが生じた背景が大きな要因になっているのではないかとも思うのです。

企業や学校、PTAなど現代の集団は個人の背景を作る文化が多様すぎます。同じ集団にまったく違った世代が参加していても違和感がありません。それが原因なのか、精神的な言葉が違う事態を指しているのが気になります。

例えば「尊敬」という言葉。若い世代の友人にそれがどのような意味であり、それを表すためにどのような行動をするかと質問したことがあります。なんと、「すごいと思うこと」が尊敬することであって、あえて特別な行動に結びつかないと言っていました。

これは少し上の世代にとって違和感が大きいのではありませんか?表せない敬意です。つまり表される敬意がないというのなら、受ける態度からの心証は、基本的に不敬だと考えるほかありませんよね。

平等は世代間を通じて、用いられる言葉の中でも難しい用語です。当然、崩壊していないはずがありません。上司、部下という違った立場であるにもかかわらず、両者は平等でありと強弁するのが、現代の若者たちかも知れません。

平等でも立場に応じた権威があり、上の権威にある者に対してへりくだった態度をとるのは、言わなくても理解されていると考えるのは、時代錯誤した認識になっています。

お互いの立場が違っているにも関わらず、同じ言葉を違う意味に使うので不安を強く感じます。平等な人間のあり方が能力や功績に頼ったあり方に優位になってきたということなのかもですね。とにかくこのような文化背景で言葉や態度の世代間のギャップが大きい時代だと言えましょう。

個人的にさすがに加害者ではないけれど、セクシャル・ハラスメントだと思われる行為をする欲求を感じた経験はあります。その時の自分を分析的に解雇すると、信頼に応えてもらえていない感がありました。

人間は信頼したのにそれに対する結果が伴わないとき、何かでバランスを取りたいと思うものなのでしょう。不足した応答に一種の欲求不満が生じていたと考えることもできます。そうして信頼に応えてもらえなかったという経験がバイアスの掛かった欲望を生み出すように思います。

信頼感に親しさが足りていなかったということでしょうか。いうまでもなく、見知らぬ人を信頼するのはお人好しだけですから、信頼するにはそれに応じた親しさが必要です。だからこそ信頼する相手との親しさを確認したいと思うのは当然でしょう。

ただお互いの承認で信頼関係を確認できるのが相応しいのですが、どのような方法で承認を確認するのかが、具体的で問題になります。考えてみればわたしたちはそのような方法を学校で学びません。信頼意識を確認する方法を学習すべきかも知れません。

信頼しあうコミュニケーションを心がけなさいと、周囲の人たちにはおすすめしています。それは相手をトラップにかけるコミュニケーションが横行しているからです。自分の答えを忖度させる問いかけのような依頼は、目的を遂げるためではなく、むしろ相手を間違えさせるための謎々のように感じさせます。

逆に信頼されなくても崩れない自己を造るのは、他人と互して生きる基本でしょう。確かに信頼されないのは苦痛です。痛いほどの孤独を感じます。それでも孤立・孤独を恐れないメンタルを育てて自立するのが大人のたしなみでしょう。

まずはこれから!セクシャル・ハラスメントの傾向と対策事始め

セクシャル・ハラスメントはさまざまなハラスメントの中でもっとも多く問題になっている種類になっています。まるで男性ならセクシャル・ハラスメントをするものだと指弾されている気分になりそうです。

でもあえてここでの大前提は、セクシャルな関係を求めている男性がすべてではないというものです。セクシャルな関係を目的としている人は公の場では該当するような行為をしないでしょう。周囲に悪影響があるのはわかっているはずです。

ですから、基本的に二人きりになるのを避けるという方法。酒の場は戦場と思うべきです。お酒はまず理性を麻痺させるところに働きます。自分の立場を忘れ、すべきことを忘れて自分を見失います。他の人が居合わせても理性に基づいた援護は期待できません。

そして相手の感情を刺激しないのが原則です。人格やその人の立場を傷つける言動は、感情に強く作用します。なので飲酒の機会をできる限り少なくするのが鉄則です。少なくとも一緒に酒を飲まないという方針を貫いてください。

普段から自分から距離感を提示するように心がけます。自分から提示しなければ、相手が自分の都合で距離感を強要するでしょう。何でも良いという考え方は、無責任のそしりを受けます。また親しければ良いとするのも考えものです。自分に都合がよい距離感で接するために工夫と技術が必要なのです。

例えば、直接的な方法より間接的な方法が優れているという考え方。直接的な方法は意識的なメッセージだから分かりやすいですが、感情的な態度に出られて困った結果を招きやすい側面を持っています。そうすると立場的に追い込まれてしまうと対策がなくなってしまいます。

直接的な方法では感情があらわになりやすく、かえって難しいものです。分かりやすいメッセージは意識の抵抗を受けるからですね。ですから間接的な方法で無意識に語りかけるのが効果的です。

そのために使えるのは礼儀作法ですが、これは距離を暗示する機能を持っています。礼儀作法を弁えて距離感を提示すれば、相手の無意識に距離感を伝えられます。敬語を使う人と敬語を使われる人は社会的立場が違うという理性の規制があり、敬語を使われる人は道徳的であることを求められていることを上手く利用しましょう。

少し気分が違うといって、相手との応答を断絶しないようにしましょう。応答が途絶すると相手の強度を増す結果になるからです。返事をしないでいると、聞こえないのかと思われて過剰な呼びかけに打って出るようになるはずです。

これは聞こえが悪い人は声が大きいという事実でも確認できます。自分が聞こえないと相手が聞こえていないと考えてしまうのです。なので応答を明確に伝わるように工夫すると良いでしょう。

敬して遠ざける作戦をおすすめします。といっても敬語を正しく使うでけです。敬語を間違って使うのは相手を馬鹿にするのと同じで相手の感情を揺さぶります。具体的な例を挙げれば、依頼の言い回しに気をつけたいものです。

「〜してください」という言い方は一見すれば、敬語のようですが実は、単なる命令を丁寧に言っているだけ。この物言いでは相手は内規化されている社会的規範に呼びかけるどころか、感情を強く刺激してしまうのです。

「だれが」という行為の主体に関する敬語を正確に使うのが肝心なのは言うまでもないでしょうが、どのような状況にあっても返事や挨拶をするのが大人にとって最低限の礼儀作法だと心得たいものですよね。

すべての人がハラスメントするのではないという事実は重要です。ハラスメント傾向の人に場を与えず、動機を与えないようにするのが自分を守るための対策としてもっとも有効でしょう。

何よりもこれを知るのが大切という、モラル・ハラスメントを考える

モラル・ハラスメントもハラスメントの中で大きな問題を生じやすいもののようで、ある意味ではセクシャル・ハラスメントよりも広義のハラスメントを含んでいます。それなのにもう一つ正体がはっきりしないもの。

モラル・ハラスメントを訳すなら道徳的嫌がらせ行為とでも訳せばいいのでしょうか。でもこれだと道徳的概念に対して嫌がらせ行為をするのかどうなのかがはっきりしません。

いろいろ出回っている内容をまとめて簡単に言えば、精神的な嫌がらせをモラル・ハラスメントと呼ぶようです。もともとの心理学的な定義を拡大して適用している概念ですから、意味が分かりづらい言葉になっているわけです。それは特殊なパーソナリティが周囲に対して行動するパターンでした。

モラル・ハラスメントとはいじめのことです。例えば言葉や態度で相手を貶めることや、もっと単純に目的もなく無視することもその一つです。あるいは学校で生じるように、仲間はずれにしたりしてもハラスメントになり得ます。精神的に傷つける意外にもウソをついて混乱させても同様です。

本来は自己愛的な変質者が攻撃的パーソナリティを剥き出しにすると考えられており、変質的な人格を問題にしていた感があります。でも誰でも自己愛的な要素を持っているはずですし、むしろ自己愛的な要素は生きていく上で不可欠です。

また誰でも攻撃的パーソナリティを宿しているはずで、いつでも攻撃的パーソナリティを露わにしている人は少数派でしょう。これらの人格的特性は程度の問題に過ぎないのです。

振り返って大多数の普通の人が攻撃的パーソナリティを発現するのはどんな時だろうと考えると、モラル・ハラスメントを生じる状況が見えてきます。加害者は復讐心を誘うような怒りや恨みの感情を抱えている場合が多いといいます。

彼らは責任感が欠如しているので罪悪感を持たないと分析しますが、責任を負わないように立ち回っているように見受けられます。そして加害者になる人には心理的障害が見られるケースも多いそうです。強いものに弱く、弱い相手に強いというのは典型的です。

ただし嫌だと感じればモラル・ハラスメントというわけではないのは当然です。被害者になりやすい傾向が認められるそうです。その種の人たちは、自信のなさから、自己評価が低く被害者意識を持っているといいます。つまり加害者は加害者になり、被害者は被害者になりやすいのです。

言い替えれば、モラル・ハラスメントは個対個の関係で生じるわけです。個人が関係と場とが接続して、ハラスメントの空間を作っています。ですから誰とでもモラル・ハラスメント問題が起きるわけではなく、パーソナリティの組み合わせ次第でハラスメントが生じます。

身体的攻撃以外にも攻撃方法はあり得ます。ルール違反や無視して応答しないなど、気になるのは時間・空間に割り込むというのはルール違反の一例でしょう。このような方法がハラスメントとして認知されずに、他人に行われている場合は注意が必要でしょう。

これらの非身体的攻撃でも相手にはフラストレーションやストレスを与え、身体的なものより防御がむしろ難しいため、恨みや怒りを蓄積しやすいのです。故事に曰く「窮鼠猫を噛む」という状況に追い込んでしまいます。その状況で、爆発する感情を捉えて蔑むのは変質的嗜好を持つ人の楽しみになるだけです。

このように考えればハラスメントは加熱するのがわかると思います。簡単なモラル・ハラスメントが継続的に行われることで、特定の人に恨みが蓄積されるのは想像できます。それが限界を超えたとき、別のハラスメントを生じるはずです。ハラスメントは単独で完結しないのです。

モラル・ハラスメントをする人・される人にはこんな特徴があった

モラル・ハラスメントのように、言葉や態度等によって行われる精神的な暴力は見えづらいです。人は外見によりませんから、問題が発生するまで気づかないかもですね。

でも傾向の強い人たちには性格的特徴があるようなので、傾向と対策は可能かも知れません。それならば傾向と対策をしてハラスメントから身を避けられるヒントを見つけたいと思います。

端的に言って彼らには心に問題があると考えるのは短絡的かも知れません。確かにしつこい人であることが多いでしょうが、しつこい人を裏返せば、熱心な人ということになります。熱心さや親切心がすべてハラスメントに結びつくとは限りません。

単にしつこいのではなく、ある事柄においてのみでなく、感情的に圧迫が出来る人格を持っているとも指摘されます。今、だれかを適当に選んで感情的圧迫を加えられるかといえば、私にとっては簡単ではないです。そうなるとハラスメントにある種の才能が必要なのかも知れません。

ハラスメントできない人が被害者になりやすいのかもと、自分のみに引き当てて、不安になりそうです。彼らにとっては「他人の不幸は蜜の味」ともいうではありませんか。このような人たちを相手にするのは不幸でしかないでしょう。とっとと逃げるとしたものですね。

でも、このようなタイプの人は少数派だと思いたいです。このような性向的にハラスメント体質という人や、ハラスメント症とでもいうべきものはもはや専門家と相談するほうが良いかも知れません。良い病院を紹介してあげるべきです。

やっかいなのは、誰にでも覚えがあるような心理的経験が基礎にあるらしいハラスメント要因です。例えば人間関係や信頼関係に関する傾向といわれれば、誰の胸にも不安が響くと思うのです。そしてモラル・ハラスメントの加害者になる人には、信頼関係の形成に問題があると指摘されています。

ただし程度の違いがあります。相手が自分の子供であっても信頼関係を作れないとハラスメントの傾向が心配されます。信頼関係が不適切な状態になると、強い者には弱く弱い者には強いという正確が裏付けされる気もしますね。

ターゲットにする相手に対し、前と今で言うことが矛盾していても、何も気にならないのは当たり前なのです。だって一貫していなければ困ると思うのは一定の信頼関係を前提にしているのですよ。信頼できない相手に一貫性を保つのは苦労なだけです。

それにも関わらず異様なソフトさで接してくるというのは、分かりやすい。下手に出ることで対人圧力を避けようという魂胆に違いありません。そして罪悪感を持たないために、責任を負いません。

責任を他人に押し付けるのは、自らの不利益を避けるためです。だからこそ自分にとって不利益になると分かれば態度をがらりと変えるわけです。内実から乖離した、立派な言葉を使うという指摘もその様子ですね。

自己無価値感が思考をバイアスしているというのも耳が痛いです。自分が十分な自己価値感を抱いているとも思っていないからです。彼らには奉仕することで自己価値観を獲得したいという欲求が垣間見えます。恩に着せたりしますが、不安を煽り解決し、相手に感謝を求めます。

他者を支配することで、自己価値観を確認するという方法に問題があります。感謝されて価値あるものとして認められたいという欲求が強いため、際限もなく非現実的なほど高い欲求を周囲の人にする。自分への被害は甚大な被害に扱う。

自己無価値感を過剰な自己愛でバランスしようとします。自己価値感や信頼関係に対する不安は程度が違っていても、共有されているものですから、日頃から自分の価値を感じれるような信頼関係を作り上げたいです。

どこにでも表れる問題だから?パワー・ハラスメントをなんとかしたい

セクハラは男女雇用機会均等法に定められています。しかし、パワー・ハラスメントという言葉の正式な定義とか要件はまだ存在していません。定義なく無制限に使われる恐れがあります。

大前提として、上司は業務について部下を指導する権限と責任を持っているということ。パワー・ハラスメントはこの大前提を侵害してはならないのです。

そうは言っても相手に与える衝撃にはいろいろあって、暴行・傷害などの身体的な攻撃に始まり、脅迫・名誉毀損・侮辱・ひどい暴言による精神的な攻撃も含みます。あるいは隔離・仲間外し・無視といった社会的攻撃もあり得ます。

業務上の攻撃もり、明らかに不要なことや遂行不可能なことの強制、仕事の妨害をしたり、能力や経験とかけ離れた程度の低い仕事を命じることや仕事を与えないのもパワー・ハラスメントのようです。私的なことに過度に立ち入って攻撃しても同じパワー・ハラスメントです。

これらの問題は労働者と労働者の間の事案として発生するのが普通なので、企業の法令遵守のためにコンプライアンス基本方針としてガイドラインや指針を定めて、法律上を遵守する企業も増えてきました。

その中に人として守るべき社会的倫理や企業倫理も含まれ、セクシャル・ハラスメントなどに対応するために、男女雇用機会均法が事業主に講ずべき措置を求めた項目として育児・介護休業に関するハラスメントや妊娠・出産に関するハラスメントなどを含みます。

このように法的措置が加えられたセクシャル・ハラスメントとは違ってパワー・ハラスメントは声高に言われる程には釈然としない部分があります。その感じはどこから来ているのでしょうか。これを探るためにも、企業内で上司の言動がパワーハラスメントになる一般的な要素4つを確認してみましょう。

まず上司の立場に基づいている言動であること。これは「自らの権力(パワー)や立場を利用した嫌がらせ」になるようです。次に職務上の必要性に基づいていないとハラスメントの要件として成立します。それに、人格の尊厳を傷つける内容であることが要件になっており、「いじめ、嫌がらせ」や差別的言辞などが該当します。

そして執拗に継続して行われる言動であることはわかりやすい。さてここで不透明さを残している要件は、「人格の尊厳」とはなんだろうか、という点です。基本的な考え方を作っている根本的なものを説明すれば次のようになります。

哲学者のカントによれば、人間を手段から区別するのが人格の尊厳ということになります。ものは所有、利用そして(一方的)支配」の対象で、道具にされますが、人間は道徳法則の主体です。人格性もつのは神聖な主体ですから、自己決定権を尊重することが必要です。

つまり部下に強要するのは人格の尊厳を傷つける行為がハラスメント的言動になります。例えば必要以上に相手の知的程度を非難する言動だったり、自己決定の機会を奪う言動は判定されてしまう危険があると覚悟が必要です。

そうするとパワハラの類型もなんとなく分かってくるように感じます。労働環境を悪化させることで、機会を奪ったり、多数の面前で叱責するのも必要以上でしょう。言葉の使用にも気をつけたいですね。給料泥棒呼ばわりしたり、退職勧奨や脅しと取られる言葉には要注意でしょう。

部課内に無視の命令を下す社会的攻撃も意図的に評価を下げるように操作するのと似ていますし、困難な仕事を与えて低評価にすることや過剰なノルマなども該当するでしょう。

訴えを聞き流すのもパワーハラスメントだとするのは、個の存在を重要だと考えましょうということに違いありません。職場の環境改善に繋がる措置ということになります。

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